今日も『じゅりあ』過ぎる内容で・・・。
2001年3月7日 どうやらプロフィールにある言葉を否定した方が良いのではないか・・・そんなことを思わせるこの頃の日記。じゅりあ炸裂!(ちゅどーん☆)
せっかく生きてるんだから、死ぬまでに大事なものを見つけておきたい・・・というのが今の本音です。ここをほんまに日記だと思って書いておこうかな?とか言って―昨日みたいな文がカキコされるんですね。そのうち、また新しい面が見えるようになると思いますが、それまでにある程度見切り、というかレッテルを貼っときたいのでしょうか?どうなんでしょうか。
一度、誰かとぶつけ合ってみたい気がします。それまでに、なんとしても自分が絶対であるという意識は持たないように。気を付けよう。
生死について考えるとき、ほんとのところ自分が長く生きるという想像が出来ません。どちらの意味でもです。だから、今のうちに見据えないといけないことをしっかり見据えようと思います。・・・といいながら、死ぬことは嫌です。
数ヶ月前、事故ってしまい『もうあかんかなぁ。』とこっそり思ったときに浮かんだのは友人のことでした。
おかしな話かもしれませんが、その友人に金を奪われるのと、命を奪われるのと、どちらがいいかを考えると私の場合「命」です。
きっと、とてつもなく悲しいと思うし、疑問なあまり情けなくなってしまうかもしれません。でも、その友人をその一瞬以上恨まないで済むはずです。お金の場合、生きている限り恨みのひとつも抱いてしまうかもしれない。だから・・・というのが今の私の答えです。
今、その友人が死の淵にいた時、私が何かに尋ねられたらその友人に命の残量を分けるか、全て与えると思う。そのことで、誰もその子を責めるのは許しません。
家族ではそんなこと出来ませんけどね。だって、家族間でするのは誰もが悲しむもの。
ここまで思えるのは、家族でも好きな男性でもない、その友人だけです。
時々、ふと私はその友人に、ひどく愚かな純愛を捧げているのかも、と考えることがあります。それを友情と呼ぶのでしょうか。もしかしたらそうなのかもしれない。そうでなければ私はバイになるわけですが・・・。
でもこの先、好きな男性と結婚して子どもを授かり、自分の命より大切なものをつくることが出来たとき、今度はその友人と同じ女として一緒にいられると思います。その友人は私にとって別のものに姿を変える。ここをご覧になる人には分かり辛いかもしれないですけど、私がその子に捧げる純愛のはそういうことなのです。
何でそこまで思えるんだろうか?
その子と3年間一緒に成長して、ようやく私は少し先の未来を想像できるようになりました。3年間で、直接の言葉・表現の要らない会話を交わせる友人になりました。分かりやすく言うと、例えば『眠い』ことを伝えるために必要な言葉【眠さを表現する言葉】よりかけ離れてても通じるということです。その会話が一番できるのはこの友人です。
しかし、そういうことはこの純愛を捧げる理由のほんの一部でしかないと思います。主な理由は、その陽炎だけしか見えない。私にもわからないです。
こんなことは本人には口が裂けても言えないなぁ、とか思いながら。
武士が言う『惚れた』って奴なのかもしれない。その子の為にこの命、張れるといいなぁ。
せっかく生きてるんだから、死ぬまでに大事なものを見つけておきたい・・・というのが今の本音です。ここをほんまに日記だと思って書いておこうかな?とか言って―昨日みたいな文がカキコされるんですね。そのうち、また新しい面が見えるようになると思いますが、それまでにある程度見切り、というかレッテルを貼っときたいのでしょうか?どうなんでしょうか。
一度、誰かとぶつけ合ってみたい気がします。それまでに、なんとしても自分が絶対であるという意識は持たないように。気を付けよう。
生死について考えるとき、ほんとのところ自分が長く生きるという想像が出来ません。どちらの意味でもです。だから、今のうちに見据えないといけないことをしっかり見据えようと思います。・・・といいながら、死ぬことは嫌です。
数ヶ月前、事故ってしまい『もうあかんかなぁ。』とこっそり思ったときに浮かんだのは友人のことでした。
おかしな話かもしれませんが、その友人に金を奪われるのと、命を奪われるのと、どちらがいいかを考えると私の場合「命」です。
きっと、とてつもなく悲しいと思うし、疑問なあまり情けなくなってしまうかもしれません。でも、その友人をその一瞬以上恨まないで済むはずです。お金の場合、生きている限り恨みのひとつも抱いてしまうかもしれない。だから・・・というのが今の私の答えです。
今、その友人が死の淵にいた時、私が何かに尋ねられたらその友人に命の残量を分けるか、全て与えると思う。そのことで、誰もその子を責めるのは許しません。
家族ではそんなこと出来ませんけどね。だって、家族間でするのは誰もが悲しむもの。
ここまで思えるのは、家族でも好きな男性でもない、その友人だけです。
時々、ふと私はその友人に、ひどく愚かな純愛を捧げているのかも、と考えることがあります。それを友情と呼ぶのでしょうか。もしかしたらそうなのかもしれない。そうでなければ私はバイになるわけですが・・・。
でもこの先、好きな男性と結婚して子どもを授かり、自分の命より大切なものをつくることが出来たとき、今度はその友人と同じ女として一緒にいられると思います。その友人は私にとって別のものに姿を変える。ここをご覧になる人には分かり辛いかもしれないですけど、私がその子に捧げる純愛のはそういうことなのです。
何でそこまで思えるんだろうか?
その子と3年間一緒に成長して、ようやく私は少し先の未来を想像できるようになりました。3年間で、直接の言葉・表現の要らない会話を交わせる友人になりました。分かりやすく言うと、例えば『眠い』ことを伝えるために必要な言葉【眠さを表現する言葉】よりかけ離れてても通じるということです。その会話が一番できるのはこの友人です。
しかし、そういうことはこの純愛を捧げる理由のほんの一部でしかないと思います。主な理由は、その陽炎だけしか見えない。私にもわからないです。
こんなことは本人には口が裂けても言えないなぁ、とか思いながら。
武士が言う『惚れた』って奴なのかもしれない。その子の為にこの命、張れるといいなぁ。
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