子どもって、なんでも知りたがる。
よく考えてみたら、何気なく赤ちゃんとか眺めてますが、赤ちゃんって『白』の状態。
・・・今では遺伝子上で正確が左右するとか、そういうこと言われてますけど。
できたてのヒトにとって見るもの全て新しいものなのですよね?全て驚きであるわけです。
歳を重ねるにつれて、日常に追われたりして一々驚いてられなくなる。
本当は・・・
『好奇心』なんて名前を付けなくても、私たちは見るもの全てに関心を寄せることができるはずです。

好奇心を起こすと何が起こるか。
―記憶力が高まるわけです。

日常で、自分が気になったこととか、感銘を受けた・・・なんて言ったらちょっと大袈裟だけど、知って驚いたこととか。
そういうことって頭に残りやすい。

そこで単純な私は「じゃあ、授業中に習うことアレコレみんな驚いたら頭に残るんじゃ・・・。」
なんて、マジに実行しました(笑)

なんか、理屈っぽい説明から入って内容それなんかいっ!って感じなんですけど(笑)

単語は確かに頭に残りやすかったですね。
生物の衝撃的な名前の動物とか(笑)
古語で日常を送ってみる!なんてのもやってました。でも、古語の場合同じ音でも現代語と意味違うのがあるんですよね。
それを無視してたからなぁ・・・意味なかったかも。

そんなこんなしていて、意味があったかどうかは定かじゃないんですけどね。

高校に入って私はいつも何かに驚いていようと努力していました。どんな小さなことにも驚いていようと。
お陰でどうやらイワユル「てんねん」キャラに納まってしまった私です(^−^;
突っ込んでくれるのが嬉しくてボケたり。
そんなこと、みんなあるよね。

確かに、人工的に驚くことは何か後ろめたいというか、天然的を演じているというか、そんな感じはありました。
もう少し経てばこのことが色々につながることを書けると思いますが、ちょっと今は思いつきません。


ヒトは天然には出来ないところがあります。
人工的にしてナンボというか。自然にそういう気持ちになるとか、ちょっと無理で
す。場合によるけど。
性善説・性悪説の間で生きてるのがヒトで。

話が断片的だけど。
今、こういう気持ちになっている時の自分であるうちに、ここにレスしておきたい。

人工である自分も‘自分’である。

常に流されて、染まって、砕けて、創って。
そうしてヒトが出来るのだと。


高校に入って私はある男の子に会いました。
これからクラブ関連で長い付き合いになると思いますが。
その子はとても努力家。独学でこなそうとする人です。
天才と秀才は違うもので。彼は言うなら秀才タイプでした。
口も上手いし、何かにつけて一生懸命。
彼は自分を変える努力を惜しまない人でした。
それが私にとっては驚きでした。
目立つために色々するのも彼。周囲のニーズに応えて自分を変えようと努力している姿も見ていました。

私はそれまで『自分』というものを変えることがどういうことなのか迷っていた。
ちゃんと変えるんですよ。ダメなところは治します。
でも、それで理想に近づけて『自分』はどこにいっちゃうんだろうか?と。
『天然』である自分が『自分らしい自分』で。
『人工』である自分は『創られた自分』であるのではないかと。
んで、『創られた自分』≠『本来の自分』みたいな。

・・・成長課題なんですけどね。この時期。今も。

だから、私にとって彼はとても驚く存在だったのです。
「またやってるね」なんて皆に言われながら(イイ意味で)、彼は、彼の輪郭を残しながら(近すぎてわからなかったけど)確実に成長していたに違いありません。
私にとって会った時の彼も、今の彼も、同じ彼なのです。

『頼られる存在』から『甘える存在』に変わった私。
でも、きっと私は変わっていない。
これが成長なのかな?

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晃司サマ
勝手ながらすっごく昔に『お気に入り追加』させていただきました。
リハビリ大変ですね。イライラとかあると思いますが頑張ってください!

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